西洋史と西洋美術史を概観する
目次
古代(------0480) [先史]から[西ローマ帝国の滅亡]までの時代を指す。
中世(0480-1400) [西ローマ帝国の滅亡]から[ルネサンス]が始まるまでの時代を指す。
近世(1400-1789) [ルネサンス]の始まりから[市民革命]までの時代を指す。
近代(1789-1989) [市民革命]から[冷戦終結]までの時代を指す。
現代(1989------) [冷戦終結]から[現在]までの時代を指す。
古代(???-480) [先史]から[西ローマ帝国の滅亡]までの時代を指す。
ヨーロッパは、古代ギリシアとローマを纏めて「古典古代」と呼ぶ伝統がある。
これは、19世紀の欧米知識人たちが、自分たちの源流を「ギリシア・ローマ時代」に求めたからである。
- エーゲ文明(BC3200-BC1200)
エーゲ文明とは、エーゲ海周辺地域に栄えた古代ギリシアにおける最古の四文明のこと。(キクラデス文明・ミノア文明・トロイア文明・ミケーネ文明の4つ)
BC1200頃ドーリス人の侵入によるミケーネ文明の崩壊をもって、エーゲ文明が終わる。
- 暗黒時代(BC1200-BC700)
ミケーネ文明の崩壊後、人々は諸所を流浪し、やがて一氏族が一村落を形成するような形で住するようになった。しばらく後、各地で有力者が台頭し、各地にポリス(都市国家)が成立した。
- ポリス(都市国家)の成立(BC700-BC499)
ポリスの政体は、王政、貴族中心の寡頭政、直接民主政など多様であった。なかでも軍国主義のスパルタと民主主義のアテナイが発展した。
- ペルシャ戦争(BC499-BC449)
アテナイとスパルタを中心とする古代ギリシア連合は、50万とも言われるペルシャ軍を撃退する。この過程で、アテナイが強大化してギリシアの覇権を握ることになった。
- カイロネイヤの戦い(BC338)
アテナイの覇権を許さない諸ポリスが反抗。ペロポネソス戦争やレウクトラの戦いなどポリス間の攻防が繰り返され、ポリス内での覇権は移行していった。
最終的に、北方のマケドニア王国がカイロネイヤの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破ってギリシアの覇権を握った。
- アレクサンドロス大王(BC336-BC323)
第26代国王 アレクサンドロス大王は、マケドニア王国をヨーロッパからアジアにわたる大帝国へ成長させた。これはギリシア文化東漸の基礎となった。
しかし、アレクサンドロス大王は前323年に急死し、後継者問題から帝国は3つの国に分裂し弱体する、各々ローマが拡大する際に併合されていくことになる。
- ローマ王政期(BC783-509)
王政期とは、ロムルスに始まる伝説上の七人の王が治めていた期間のこと。
第7代の王タルクィニウス・スペルブスを追放し共和制に移行した。
- ローマ共和世紀(BC509-BC27)
共和制に移行してから、帝政に移行するまでの期間のこと。
政治は元老院と執政官らを中心として、一般ローマ市民の意思も反映されながら運営していた。
- ローマ帝政の開始(BC27)
紀元前27世紀にユリウス・カエサルの息子、アウグストゥスが内乱を勝ち抜き、帝政を創始した。
- 五賢帝の時代(96-180)
紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えた。広大な領土と属州支配に支えられ、「パックス・ロマーナ」とよばれる安定期が続いた。
- 軍人皇帝の時代(235-284)
しかし、帝国が拡大する一方で、ゲルマン人や周辺民族の侵入が激化した。軍人皇帝とは、そんな時期に軍事力を背景に廃立された皇帝をいう。乱立の結果として皇帝の権威が失墜、また帝位が頻繁に入れ替わるため内乱状態が続き、ローマ帝国は弱体化した。
- ミラノ勅令(313)
帝政初期に帝国領内のユダヤ属州で生まれたキリスト教は、徐々に信徒数を増やしてゆき、2世紀末には帝国全土に教線を拡大していた。これを帝国統治に利用しようという意図もあって「ミラノ勅令」を発布。キリスト教を公認した。後のテオドシウス1世のときには国教に定められ、以降急速に拡大した。
- 帝国の分裂から西ローマ帝国の滅亡(395-476)
テオドシウス1世は死に際して帝国を東西に分け、長男に東を、次男に西を与えて分治させた。しかし、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に耐え切れず、476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅亡に追い込まれた。東ローマ帝国は1453年まで存続するものの、ここをローマ帝国衰退の要所として、古代と中世の境に定めている。
- 古代の作品
BC220年頃 舳先に降り立った女神 / 「サモトラケのニケ」
中世(480-1400) [西ローマ帝国の滅亡]から[ルネサンス]が始まるまでの時代を指す。
西ローマ帝国の崩壊によるローマ文明の没落から、ルネサンスによる復興するまでの間の「異質な時代」として中世が存在した。と19世紀の西欧知識人たちは考えていた。今日、これを受容する学者はいないが、広く共有された枠組みとして利用されている。
- フランク王国建国(481)
ゲルマン民族の王国が各地で乱立し衰退するなかで、フランク王国は、キリスト教との結合を強めることで強大化していった。
- カール大帝の戴冠 (800)
2代目 カール大帝が、ローマ教皇からの帝冠を受けることで、ローマ・ゲルマン・キリスト教文化が融合した、ヨーロッパ文化の基礎が確立した。
- フランク王国の分裂(843)
しかし、カール大帝の死後に弱体化、ヴェルダン条約によって東フランク・西フランク・イタリア王国に分割された。
- 神聖ローマ帝国(962)
東フランク王国は、後にローマ教皇からの帝冠を受けて神聖ローマ帝国となった。
- カノッサの屈辱(1077)
聖職叙任権をめぐってローマ教皇グレゴリウス7世と対立していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、北イタリアのカノッサ城に赴いて教皇に許しを願ったことをいう。この事件を契機に教会権力が増大した。
ロマネスク美術(476-1096)
修道院を中心に西欧各地で発展した建築・美術様式。地方色が強く多様で、重厚な外観と暗く静謐な内部空間をもち、建築枠の制約を受け入れた彫刻や色鮮やかな壁画は平面的だが生命力に溢れる。
ゴシック美術(1096-1400)
ロマネスク美術から発達した建築・美術様式。尖頭アーチや飛梁など構造要素の革新によって大聖堂など巨大建築が可能になった。建築枠に囚われない丸堀り彫刻や絵画は優美で自然主義的な傾向が強い。
- マンツィケルトの戦い(1071)
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が、セルジューク朝(トルコ系イスラム王朝)に大敗。セルジューク朝の脅威にさらされることになった東ローマ帝国が、西欧に救援を要請した。これが十字軍の切欠になった。
- 第一回十字軍(1096)
十字軍とは、カトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを大義とした遠征軍のことである。しかし、参加への動機は、それぞれの立場によって大きく異なっていた。数回にわたる十字軍の失敗による教会の権威失墜、イスラム・ビザンツ文化への接触などが、ルネサンスの興る切欠になった。
ビザンティン美術(476-1453)
コンスタンティノープルを中心に展開した東ローマ帝国の美術。ヘレニズムとアジア、双方の影響下に成立し、神秘的厳格さと華やかな宮廷文化の壮麗を特徴とする。
- 中世の作品
708〜1897 人間と自然がともに作りあげた傑作/「モン・サン・ミシェル」
近世(1400-1789) [ルネサンス]の始まりから[市民革命]までの時代を指す。
近世は、非ヨーロッパを大きく構造的に取り込みながら近代世界へ転変していく時代である。特に、ルネサンス・大航海時代・宗教改革など世界史・人類史から見ても画期とされる現象が続いた。
教会の権威失墜に伴い、各地の王が強大な権力を持って中央集権化を図った。代表的な王朝として、イングランドのテューダー朝、フランスのブルボン朝、スウェーデンのヴァーサ王朝・プファルツ王朝などが挙げられる。
- ルネサンスの始まり(1400-)
北イタリアのフィレンツェにおいて、古典古代の文化を復興しようとする運動ルネサンスが興った。イタリアから始まった理由として以下が挙げられる。
1.イタリアに古典文化遺産が豊富だったこと
2.ビザンツ帝国崩壊によって多数の学者が移住してきたこと
3.東方貿易による経済的繁栄があったこと
4.ローマ教会の権威失墜
以降、ルネサンスは、ヨーロッパ全域に波及した。
- 大航海時代(1414-)
17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいう。
ルネサンスによる科学技術の進歩、強大な国家が成立などが切欠になった。
- 宗教改革(1517)
ルターの贖宥状批判がきっかけとなり、教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、プロテスタントの分離へと発展した。
このプロテスタンティズムの倫理が、資本主義・民主主義成立の契機となった。(※)
- 近世の作品
1484 ルネサンスの始まり / ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」
1506 理想の女性像 / レオナルド・ダ・ヴィンチ「ほつれ髪の女」
1613 蝋燭のフォルム / エル・グレコ『無原罪の御宿り』
1622【美の巨人たち 感想】 ベルニーニ 「アポロンとダフネ」
1657 『ラス・メニーナス』の続編? / ディエゴ・ベラスケス「アラクネの寓話」
1665 絵画史上 最も美しい少女 / フェルメール 「真珠の耳飾りの少女」
1701【美の巨人たち 感想】カラヴァッジョ 「エマオの晩餐」
近代(1789-1989) [市民革命]から[冷戦終結]までの時代を指す。
近代初期は、従来の封建社会が崩壊し、資本主義の確立や工業化の進展など、近代社会が形成される過渡期であった。反対に後期は、大戦による相互破壊によってヨーロッパ全体を著しく消耗させた末期であった。
- ピューリタン革命(1638-1660)
イングランド国教会の改革を唱えたプロテスタントのグループであるピューリタン(清教徒)は、王党派によって弾圧されていた。ここから、ピューリタン中心の議会派との対立が深まり、武力衝突に発展した。この争いは、議会独立派のクロムウェルがチャールズ1世を処刑(1649)したことで終結した。
- 王政復古(1660)
しかし、クロムウェルとその子リチャードは、独裁政治を行った。
独裁政治への強い反対から、前王の子チャールズ2世を呼び戻し、王制を復古させることになった。
- 名誉革命(1688)
しかし、チャールズ2世の後を嗣いで即位したジェームズ2世は、再びピューリタンを弾圧した。これに対し議会派は、メアリー2世とその夫ウィリアム3世を新国王に据えた。
これ以降、国王の権利が制限され、イギリスに於ける議会政治の基礎が築かれた。
- 産業革命(1700-)
革命による社会・経済的な環境整備、植民地の存在などの理由から、急速な工業化が進んだ。これにより、多くのブルジョワが生まれ、資本主義的生産が確立し初めた。産業革命の波は、イギリスを皮切りにベルギー、フランス、ドイツ…へと波及した。
- フランス革命(1787)
不作・宮廷の浪費、戦争での出費などを背景に革命が起こり、フランス王制を打倒し、共和制を樹立した。
- 第一回対仏大同盟(1793)
周辺諸国は革命の波及を恐れ、同盟を結成し、フランスに宣戦した。この危機から、政治・社会不安が増大、民衆は、強大なリーダーを求めていた。
- ナポレオン戦争(1803-1815)
ナポレオンは「支配者からの解放を掲げて」ヨーロッパ全土を敵に回し、イギリスを除くヨーロッパの大半を勢力下に置いた。しかし、ロシア遠征(1812)の敗北の隙を諸国につかれ失脚する。
- ウィーン会議(1814)
ナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として開催された。ここで絶対王制時代への逆戻りを目論んだ。また領土に関しては、オーストリア帝国、プロイセン王国、など39の領邦が同盟、ドイツ連邦が誕生(1815)した。
ロマン主義(1815-1830)
ナポレオンの侵略は各国の自我を目覚めさせ、それぞれの国の歴史と風土に根ざした美術の発展の切欠をつくった。造形的には躍動的な構図と強烈な色彩を用いて演出する場合が多く、動感を線や面の強弱や連続性以上に、暴力的なまでの筆致によって表す傾向が強い。
- 7月革命(1830)
1815年に王政復古したブルボン朝は再び市民革命によって打倒された。その影響はヨーロッパ各地に波及し、ウィーン体制を揺るがせた。
- ドイツ帝国の誕生(1871)
北部ドイツにおいて最有力国家であったプロイセンの首相ビスマルクは、君主制のドイツによる統一を目指した。フランスとの戦争を画策し、ナショナリズムを利用して、ヴィルヘルム1世を初代ドイツ皇帝として擁立、ドイツ帝国を作り上げた。
以後、急速に工業化が進み、イギリス・フランスに継ぐ大国への発展した。
- 第一次世界大戦(1914-1918)
大航海時代以降、列強は植民地支配によって莫大な利益を得ていた。しかし世界を支配し尽くしたことで、列強同士で奪い合うしか植民地を増やす手段がなくなってしまった。早くから海外進出していたイギリス・フランスは、急速に台頭してきたドイツを共通の敵と考え同盟、これに隣国ドイツの台頭を危険視していたロシアも加わり三国協商を締結した。一方、ドイツは、オーストリア・イタリアと三国同盟を締結た。サラエボ事件を切欠に戦争へ突入し、4年後に三国協商側が勝利した。
- ヴェルサイユ条約(1919)
戦勝国の賠償既定として「ヴェルサイユ条約」が締結。敗戦国に莫大な賠償金の支払いと軍縮を強いた。加えて世界恐慌が顕在化。この強い政情不安がファシズムの台頭の切欠になった。
- 第二次世界大戦(1939-1945)
ドイツでは、ヴェルサイユ体制の打破を掲げアドルフ・ヒトラーが権力を掌握。同じような境遇のイタリアと同盟を締結し、ポーランドへ侵攻、破竹の勢いでヨーロッパの大半を占領した。
一方、アメリカの後ろ盾のせいで中国の侵略に難航していた日本は、敗戦国となったフランス領の植民地に矛先を向けた。これが切欠で、日本は枢軸国側として、アメリカは連合国側として参戦した。ほどなく連合国側が優勢となり、1945年にイタリア、ドイツ、日本の順に降伏した。
- 冷戦(1945-1989)
主要戦勝国であるアメリカとソ連は、ヤルタ会談で、ヨーロッパをドイツの首都ベルリンを境に東西に分断し、東側はソ連、西側はアメリカが支援していくことを決めた。これが東側は社会主義、西側は資本主義というイデオロギー的な対立に発展した。両国による大々的な戦闘は起こらなかったが、各地で代理戦争は頻発していた。ほどなく共産主義国と資本主義国の経済格差が顕著になり、資本主義国内で不満が噴出した。クーデターによって、1991年にソビエト連邦が崩壊すると、その後十年間で東側の諸国は、相次いで資本主義国家となった。
20世紀美術(1900-)
20世紀になると、絵画から派生した表現が多様化するようになる。同様に絵画以外の美術も多様に分岐し、多彩な作品が成立している。これに伴い、美術及び美術の領域がどう定義されるか、そして、美術の指示対象や範囲が不明瞭になった。
- 近代の作品
1857 農民画家 / ジャン・フランソワ・ミレー「落穂拾い」
1830 栄光の三日間 / ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」
1863 古典からヌードを取り戻す/エドゥアール・マネ 「草上の昼食」
1873 異色の印象派 / エドガー・ドガ 「ダンス教室」
1886 20世紀絵画の先駆け / ポール・セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」
1886 【美の巨人たち 感想】 フレデリック・バルトルディ 「自由の女神(Liberty Enlightening the World / 世界を照らす自由)」
1889 狂気の色彩/ゴッホ 「糸杉」
1907 空想のジャングル/アンリ・ルソー 「蛇使いの女」
1918 【美の巨人たち 感想】ルノワール『浴女たち』
1925 置き去りにされたアメリカ / エドワード・ホッパー「線路わきの家」
1955 【美の巨人たち 感想】 ノーマン・ロックウェル「結婚許可証」
1962 民主主義のための建築 / フランク・ロイド・ライト「マリン郡庁舎」
現代(1989-???) [冷戦終結]から[現在]までの時代を指す。
戦後の壊滅的な状況やアメリカの台頭などを受けて、ヨーロッパ統合の気運が高まった。これは急速に進み、連合体として完成されつつあると思われたが、2010年に経済危機が起こる。以降、未だ解決の目処が立たず、欧州不安は拡大している。
- シューマン宣言(1945)
戦争で用いられる兵器の製造に欠かせない2つの素材、石炭と鉄鋼に関する産業を統合するべきであると宣言した。シューマンの提案に対し、西ドイツをはじめとして、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクが参加した。
- ブリュッセル条約(1965)
欧州石炭鉄鋼共同体に加え、欧州経済共同体と欧州原子力共同体が誕生した。これらはブリュッセル条約によって統合され、欧州共同体と呼ばれる体制が発足した
第3次ドロール委員会で欧州連合条約が発効。欧州共同体に「3つの柱」を加えた新体制が発足した。
・欧州共同体
・欧州連合
・警察・刑事司法協力
- リーマンショック(2008)
アメリカの大手証券会社・投資銀行リーマン・ブラザーズの破綻が引き金となって世界的な金融危機および世界同時不況が起こった。経済外交の舞台が主要8か国・地域(G8)会議から、中国、インドなど新興国を含む20か国・地域(G20)会議へ交代する契機となった。
- 欧州ソブリン危機(2010)
ギリシャ政権交代による国家財政の粉飾決算の暴露から始まる、経済危機の連鎖である。2011年以降もユーロ圏第三位のイタリア情勢が深刻化するなど未だ解決の目処が立たず、欧州不安は拡大している。