日本史と日本美術史を概観する

目次
石器時代(BC30000-BC900) 石器の出現から農耕の開始までの時代を指す。
弥生時代(BC900-300) 農耕の開始からヤマト王権の成立までの時代を指す。
古墳時代(0300-0592) ヤマト王権の成立から飛鳥へ遷都するまでの時代を指す。
飛鳥時代(0592-0710) 592年から710年に飛鳥に都が置かれていた時代を指す。
奈良時代(0710-0794) 710年から794年に平城京に都が置かれていた時代を指す。
平安時代(0794-1185) 平安京に遷都してから鎌倉幕府が成立するまでの時代を指す。
鎌倉時代(1185-1333) 鎌倉幕府成立から鎌倉幕府滅亡までの時代を指す。
室町時代(1333-1573) 足利の台頭から、15代義昭が追放されるまでの時代を指す。
安土桃山(1573-1603) 織田信長豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代を指す。
江戸時代(1603-1867) 江戸幕府樹立から明治天皇が即位までの時代を指す。
近代(1868-1945) 明治天皇の即位から第二次世界大戦敗北までの時代を指す。
現代(1945-)第二次世界大戦敗北から現代までの時代を指す。

石器時代(BC30000-BC900) 石器の出現から農耕の開始までの時代を指す。

  • 日本列島の形成

約3万年前、日本列島の北部と南部は大陸と陸続きだった。アジア大陸南部の古モンゴロイドが、その陸橋から日本列島に渡った。

彼らは竪穴式住居に住み、縄文式土器打製石器・骨角器などの道具を使用し、弓矢を用いた狩猟・漁労・植物の採集などで生活を営んでいた。


弥生時代(BC900-300) 農耕の開始からヤマト王権の成立までの時代を指す。

  • 稲作の伝来

水田農業と金属器を伴う文化が、朝鮮より北九州に伝来、日本列島各地へ急速に広まった。

  • 身分差が生じ始める

農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が形成された。

2世紀末、女王卑弥呼邪馬台国が勢力を強化し、30余の小国を連合させた。各地にも同様の規模の小国が分立していた。


古墳時代(300-592) ヤマト王権の成立から飛鳥へ遷都するまでの時代を指す。

3世紀後半に畿内を中心とする大和朝廷の支配体制が強化され、国家の統一が進んだ。世襲制を確立した大王(天皇)が君臨し、農具と武具の独占を通じて、族長(貴族)に土地と人民を支配させた。

各地で有力者のための多様な古墳が建造されていたが、ヤマト王権成立より後は前方後円墳が主な形式になった。これはヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。

  • 仏教公伝(538)

538年に百済を経由して仏像と経文が伝来する。天皇の仏教帰依を巡って物部氏蘇我氏が対立。渡来人らの支援を受けて蘇我氏側が勝利した。


飛鳥時代(592-710) 592年から710年にかけて飛鳥に都が置かれていた時代を指す。

権力の中枢を握った蘇我馬子は、崇峻天皇を暗殺し女帝推古天皇を立てた。

大国唐が東アジアに勢力を伸ばしていたなか、朝鮮半島の白村江で行われた、倭国百済連合軍と、唐・新羅連合軍との戦い。これに大敗北することで、倭国内の諸勢力は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急速に進んだ。

大友皇子に対し、弟・大海人皇子が地方豪族を味方に付けて反乱。反乱者である大海人皇子が勝利した。後に天武天皇として即位、大宝律令・国号日本の制定、天皇の神格化などによって権力集中を徹底した。

飛鳥文化

7世紀前半の聖徳太子時代が中心。日本最初の仏教文化として北魏六朝の文化的影響のもとに展開、法隆寺に代表される遺品を残す。

奈良時代(710-794) 710年から794年に平城京に都が置かれていた時代を指す。

さらなる天皇中心の専制国家の確立を推し進める狙いから、奈良へ遷都。中国の長安を模して壮麗な都を造営した。

しかし後年、自然災害や飢饉、天然痘の流行が頻発。それは後継者問題から殺した早良親王による祟りだとも考えられた。そこで再び長岡へ遷都を計画するも、災害は収まらなかった。

災害が収まらなかったため、再び京都に遷都を敢行。仏教や陰陽師など様々な呪術に関する対策が為された都がつくられた。

白鳳文化

壬申の乱後の天武・持統朝では、天皇の権威が確立し、律令の制定、記紀編纂の開始、万葉歌人の輩出、仏教美術の興隆など、初唐の文化の影響の下に、力強い清新な文化を創造した。

770【美の巨人たち 感想】修円「室生寺五重塔」



平安時代(794-1185) 平安京に遷都してから鎌倉幕府が成立するまでの時代を指す。

藤原良房は、皇室に娘を嫁がせ子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握った。さらに孫を即位させ、摂関として実権を握った。以降、藤原家は摂政や関白となって、天皇の代理者として政治の実権を独占した。

天平文化

盛唐期の文化を国家的な規模でとりいれ、建築・彫刻・絵画・工芸などあらゆる部門で、高度の技術的習練による古典的様式を作り上げ、大陸的・仏教的な特色をもつ。

藤原家に対抗して、天皇が余力ある内に引退し、上皇として若い天皇を後見する形式が生まれた。上皇の軍事力として武士を重用したことが武士の台頭を促した。

藤原家と上皇皇位を巡って、保元・平治の乱が起こる。藤原家側が勝つも、武士の影響力が増大した。これにより平清盛が台頭し、平氏政権が登場した。

弘仁貞観文化

大陸芸術の摂取と同時に、日本独自の様式の形成へ向かい、密教の興隆により重厚で神秘的な仏像・仏画が多く作られた。

国風文化

平安中期から後期にかけて栄えた、優雅な貴族文化。遣唐使の廃止によって唐文化の影響が弱まると、仮名文字・女流文学・大和絵寝殿造浄土教芸術として開花した。

1124 極楽浄土への願い/藤原清衡「中尊寺・金色堂」


鎌倉時代(1185-1333) 鎌倉幕府が成立してから鎌倉幕府滅亡するまでの時代を指す。

源頼朝治承・寿永の乱平氏政権を打倒し、その過程で守護・地頭補任権を獲得した。ほどなくして、朝廷を超える政権へと成長した。源頼朝の死後は妻方の北条家が実権を握った。

二度の蒙古襲来への対応は、北条一門に対する不満を増大させた。加えて恩賞未払いなどの火種も加わり、幕府崩壊の切欠になった。

蒙古襲来以後、困窮する武士たちは北条家の専制体制に反発し、鎌倉幕府を滅亡に追い込む。しかし、朝廷での皇位争いの末に新たな統治者となった後醍醐天皇は、公家を優遇した。

鎌倉文化

鎌倉時代武家を中心とする文化。京都の公家文化を土台に、禅宗をはじめとする中国宋・元の文化をも摂取して、文学・絵画・彫刻・建築など多くの分野に独特の創造的・個性的文化を生み出した。

室町時代(1333-1573) 足利尊氏征夷大将軍補任から、15代義昭が追放されるまでの時代を指す。

後醍醐天皇への不満を募らせた武士たちは、有力武士であった足利尊氏の元に集い反旗を翻す。革命は成功し、公家の基盤であった京都に武士政権である室町幕府が誕生した。

  • 守護領国制

内乱の過程で、荘園制的支配の根幹であった職の体系が崩れ、各地に守護や守護大名による支配領域が生まれた。

8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生、有力守護大名が南北に分かれて争った。争いは全国に拡大、幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。

北山文化

室町初期、足利義満・義持時代の文化。義満が北山に別荘を設けたところから、義政時代の東山文化に対して名づける。

東山文化

公家文化・武家文化に禅宗文化の融合したもので、庭園・書院造り・華道・茶道・水墨画・能・連歌など各分野の発達が目覚ましく、近世文化の源流をなす。義満時代の北山文化に対していう。

1496 これこそが画聖雪舟 / 雪舟等楊「慧可断臂図」


安土桃山時代(1573-1603) 織田信長豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代を指す。

  • 信長政権の樹立(1573)

守護大名守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、各地で自立化を強めた。そのなか台頭した織田信長が室町将軍足利義昭を放逐した。その後、天下統一を成す前に、本能寺の変で部下の謀反を受け死去。

  • 天下統一(1590)

信長の後継者として政権を引き継いだ羽柴秀吉は、天下統一を成し遂げる。検地と刀狩りを実施し政権の安定に力を注ぎ、海外進出も目論む。しかし、秀吉の死後、後継者問題から豊臣政権は弱体化する。

秀吉が死去すると、五大老の筆頭である徳川家康が台頭、石田三成を中心とした反家康勢力が反発し、全国を二分する関ヶ原の戦いが勃発した。これに勝利した徳川家康は政権の基盤を固め、征夷大将軍に任じられた。

桃山文化

特に豪壮な城郭・殿邸・社寺の造営やその内部を飾る障壁画が発達。また、民衆の生活を示す風俗画の展開、陶芸・漆工・染織など工芸技術も進歩した。

1589−1644 雅への誘い/尾形光琳「松島図屏風」


江戸時代(1603-1867) 徳川家康江戸幕府樹立から明治天皇が即位までの時代を指す。

徳川家康関ヶ原の戦いに勝利して権力を掌握すると江戸に幕府を開き、大坂の役で豊臣氏を滅ぼした。その後、武家諸法度の発布、参勤交代の義務化、有力大名の改易などを通して、諸大名との主従制を確固たるものとした。

元禄文化

江戸前期の文化。新興町人、特に上方の商人を主な担い手とし、人間性・合理性を重んずる町人気質を特徴とする。特に、文芸面での著しい発達がみられた。

  • 黒船来航(1853)

商品経済の発達による社会各層での貧富の拡大、国外からの圧力などの理由から、幕藩体制は限界を迎えていた。黒船来航と日米和親条約締結による開国を契機として、幕府の威信は低下、ともなって朝廷の権威が増大した。

全国各地に尊皇壤夷の風潮が高まり、討幕運動が激化した。戊辰戦争で薩摩長州連合を相手に敗北、1867年に江戸幕府は崩壊した。

化政文化

江戸後期に栄えた町人文化。文学では人情本滑稽本・読本・合巻のほか俳諧・川柳などが流行。また、浄瑠璃・歌舞伎・文人画・浮世絵も盛んであった。

  • 江戸時代の作品

1600-1700【美の巨人たち 感想】 円空「両面宿儺坐像」
1604 モザイク城/井伊直孝「彦根城」
1690 浮世絵の創始者/菱川師宣 「見返り美人図」
17xx 【美の巨人たち 感想】 伊藤若冲 「鳥獣花木図屏風」
1763 【美の巨人たち 感想】 曾我蕭白 「雲龍図」
1764 花の曼荼羅/伊藤若冲 「百花図」
1830 筆意を加ふる/歌川広重 「月に雁」
1831【美の巨人たち 感想】葛飾北斎「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」
1840 江戸のからくり/田中久重 「文字書き人形」
1863 奇跡のモニュメント/ベルナール・プティジャン「大浦天主堂」


近代(1868-1945) 明治天皇の即位から第二次世界大戦敗北までの時代を指す。

  • 明治政府樹立(1868)

倒幕派の諸藩を中心として樹立した明治政府は、欧米先進国の法律・制度・文化などを積極的に取り入れて、近代的な機構を整備していった。

朝鮮国内の甲午農民戦争をきっかけに朝鮮に出兵した日清両国の対立が激化し、日清戦争に発展する。これに勝利することで、欧米列強と並んで帝国主義国家の仲間入りした。

日清戦争の勝利で中国に権益を持った日本に、ロシアが反発する。これより日本とロシアが朝鮮と南満州の支配をめぐって日露戦争へと発展した。これにも勝利した。一方アジアへの進出を阻まれたロシアはバルカン政策を強化、第一次世界大戦の切欠になった。

ヨーロッパ列強が戦争に没頭するなか、アジア権益を拡大させる好機ととらえた日本は、日英同盟を理由に連合国として参戦する。国際社会における評価を得て、パリ講和会議において、五大国の一員として招かれる。しかし、露骨な国益追求の姿勢がアメリカ・中国との火種となった。

世界恐慌が直撃し社会不安が増大した。政党政治に代わって軍部が台頭した。

関東軍は独断で満州を占領して満州国を樹立。これにアメリカやイギリスの反発、日本は国際連盟を脱退した。これより日中戦争に発展した。

ヨーロッパにおけるドイツ軍の勝利を知り、日中戦争の泥沼からの脱出を求め、ドイツ・イタリアと三国同盟を締結する。しかし、アメリカとの戦端を開くや、中国に対する軍事的勝利の可能性は遠のいた。1945年8月、アメリカの2発の原爆投下、ソ連・モンゴル軍の参戦により、日本は降伏した。

近代美術

明治以降の日本美術の展開は、伝統美術の継承と新美術の成立という二つの流れが拮抗しながら展開していった。また、明治政府は産業振興のために、世界の博覧会に伝統的な工芸美術を積極的に出品し、世界にその存在を知らせるとともに、輸出への活路をみいだそうと努めた。

  • 近代の作品

1890【美の巨人たち 感想】芸術か 娯楽か?/安本亀八 「相撲生人形」
1903 狩野派に西洋の色彩を / 橋本雅邦「林間残照図」
1909 世界最後の宮殿/片山東熊 「迎賓館赤坂離宮」
1923 新興日本の文化を/ 横山大観 「生々流転」
1924 【美の巨人たち 感想】 速水御舟 「名樹散椿」
1931 線の画家/小林古径 「髪」
1934 【美の巨人たち 感想】上村松園 「母子」
1937 プロパガンダ芸術 / 藤田嗣治「秋田の行事」
1941 賛美歌、あるいは鎮魂歌 / 小磯良平「斉唱」


現代(1945-) 第二次世界大戦敗北から現代までの時代を指す。

現代美術

20世紀になると、絵画から派生した表現が多様化するようになる。同様に絵画以外の美術も多様に分岐し、多彩な作品が成立している。これに伴い、美術及び美術の領域がどう定義されるか、そして、美術の指示対象や範囲が不明瞭になった。

  • 現代の作品

1953 戦後日本の新旧/木村伊兵衛 「板塀」
1965 二人の天才の共作/棟方志功「富嶽頌」
1966 【美の巨人たち 感想】中川一政「福浦突堤」
1968【美の巨人たち 感想】東山魁夷「年暮る」