【読了】『マックス・ヴェーバー入門』

2012/1/20(金)

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)
山之内

新書: 248ページ
出版社: 岩波書店
発売日: 1997/5/20

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目次

プロローグ―近代知の限界点に立って
第1章 神なき時代の社会科学
第2章 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』再訪―悲劇の精神
第3章 精神の病―死と再生のドラマ
第4章 古代史再発見―回帰する時間の社会学
終章 受苦者の連帯に向けて

雑感

ヴェーバーの比較宗教社会学に興味が湧いて、積んでいた『プロ倫』(大塚久雄訳)に手を出すも頓挫。急がば回れ、入門書を見繕って数冊読んだが、なかでも本書は、通説に対して実にラディカルで面白かった。

社会科学の二つの潮流を確認
  • 1.構造論的アプローチ

アダム・スミス国富論』に端を発する。"見えざる手"の働きによって倫理や道徳といった主観的動機が排除されるからこそ、市場メカニズムに社会科学的なアプローチが可能である、とする立場。(マルクスも含まれる)

  • 2.行為論的アプローチ

対して、市場メカニズムの歴史的成立を可能にした主観的動機に注目しなくてはならない、とする立場。特にヴェーバーは、宗教が与えた"救済"によって、一貫した行為動機(倫理的・道徳的生活態度)が形成されたと論じた。

ヴェーバーの論点 ・「合理化された世界像」による行為の構造化

キリスト教ヴェーバーの考察の中心部分を占めた理由は2つ。

しかし、本書では"ヴェーバーを合理化された近代西洋文化の(起因であるキリスト教の)賛美者"ではないとしている。その回答は以下の3つの著書から得られる。(略)

  1. 『宗教社会学論集・序言』
  2. プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
  3. 『職業としての学問』

比較類型学の観点からすれば、ユダヤ教からキリスト教へと警鐘されてくる合理化は、そのうちの一つの理念型にすぎない。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

よって、「宗教的教説の中にどんな経済的行為についての示唆が現れているのか…」ということではなく、「純粋に宗教的な特徴を帯びた言説が、説教者たちの意図を超えた形で、経済的な行為の領域に影響を及ぼすという飛躍」を考察することが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の主題になる。

つまり、古プロテスタンティズムが有していた宗教的純粋性が、非合理的だからこそ(経済の領域における)合理化へと向かった、その過程が最大のポイント。


読解のための補助線

  • 1.距離の感覚を自覚する

我々は現代という時代、社会集団の枠の中に生きている。それを自覚し、自分自身が所属する社会集団の意識から距離をとって相対化して眺める必要がある。そのうえで、他の時代や他の社会集団の中で生きてきた人々に対して感情移入し、内在的に理解する想像力が必要。

  • 2.方法的な不連続性を理解する

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』には、「叙述の論理に意図的にズレ・断絶を生じさせ、これを積み重ねることによって延長線上にパラドックスを表現する」という特殊な方法が用いられている。これを理解していないと最後の「ドンデン返し」が単なる時代の経過によるものと誤認してしまう。


カルヴァン主義の予定説
当然、原始キリスト教では「職務が神に与えられた使命」などとは考えない。ルターやカルヴァンも"社会秩序の動揺"の中で魂の救済を与えることに精力を注いでいた。

しかし、カルヴァンほど屈強な信仰を持たない人々が「カルヴィニズム(予定説)」によって受けた心理的衝撃は計り知れない。このカルヴァンと一般信徒との間のズレが重要。

つまり、職業労働の実践を通して、神の道具となり実践したからといって、救いに導かれる保証はない。根拠にはならないが、一般信徒にとって、選ばれた者であることの表徴として必要なものであり、意味があった。

そして、「絶対的な神」という背景が…

  • 禁欲的な職業労働
  • 功利主義的な社会組織の形成
  • 呪術的要素の排除
  • 被造物の神化を否定
  • 権威主義を標榜

……

今日の資本主義・民主主義へ至る基盤になった。



しかし、この類のズレは人類史の至るところにみられる。ヴェーバーの研究は、古代ユダヤ教ヒンドゥー教・仏教・儒教道教までに及んだ。