亀山郁夫『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』

2012年1月13日(金)

『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する
亀山 郁夫

新書: 277ページ
出版社: 光文社
発売日: 2007/09

Amazonで詳しく見る

目次

第一章作者の死、残された小説
第二章 皇帝を殺すのは誰か
第三章 託される「自伝層」
第四章 「第二の小説」における性と信仰
おわりに もう一人のニコライ、ふたたび自伝層へ
余熱の書――あとがきに代えて

雑感

優れた作品には当人が意図しようがしまいが、思惟考察せずにはいられない魅力がある。それは単に現代芸術的な抽象という意味ではなく、コルビュジェデューラードストエフスキー、あるいは哲学や数学からも同様に感じられる形而上的な魅力。

著者曰く、ドストエフスキー作品は

  • (上層)象徴層 -形而上的なドラマ化された世界観を表現する層?
  • (中層)自伝層 -個人的な体験を密かに露出させる層
  • (下層)物語層 -小説全体を駆動させていく物語レベルの層

この三層によって構成されており、各層と各々のエピソードを照らし合わせて紐解いていく必要があるらしい。

"魅力"が必ずしも象徴層だけにあるとは限らないが、なるほど、この三層構造は『カラマーゾフの兄弟』の魅力の説明にもなる。例えば、「スメルジャコフを唆したイワン」は自伝層、「大審問官やゾシマ長老の説教」は象徴層といったように。それに「物語」を適当な語に変えれば、他分野の作品を見るときにも使える、汎用性を持った便利な基準かもしれない。

さて、この基準からも『カラマーゾフの兄弟』には作品としての多用な魅力があるとわかる。しかし、それらの全てを引き立てている、最大の魅力は、やはり「未完成」であることだと、私は思う。

続編の構想

ドストエフスキーの没年は1881年1月28日
カラマーゾフの兄弟』の完成は1880年11月
完成からわずか三ヶ月足らずして、ドストエフスキーは他界する。

しかし、小説としては少々異例の前書き「作者の言葉」にこう書かれている。

『……困ったことに、伝記は一つだが、小説は二つあるのだ。重要な小説は二番目のほうで、これは、すでに現代になってからの、それもまさに現在のこの瞬間における、我が主人公の行動である。第一の小説はすでに十三年前の出来事で、これはほとんど小説でさえなく、わが主人公の青春前期の一時期にすぎない………原卓也訳 作者の言葉』

つまり『カラマーゾフの兄弟』は、主人公「アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフ」の伝記の前半分(それもあまり重要ではないほうの…)であることがドストエフスキーによって明言されている。

前書き以外にも「晩年の友人スヴォーリンの証言」や「アンナ夫人の証言」などから続編構想があったことは間違いない。

私にとっての『カラマーゾフの兄弟』は10代の頃に熱読した原卓也訳だったが、読後の"もどかしさ"をよく覚えている。「作者の言葉」さえなければ綺麗な結末だったのに。ドミートリーの誤審判決の行方は、アリョーシャに潜むカラマーゾフ性は開花するのか… 私のそれは、根拠などない全くの妄想だったけれど。

亀山郁夫の新訳

私が亀山訳に手を出さなかったのは先行訳に比べて劣っているのだろう、なんて理由ではなく、単にノスタルジックによるもの。線を引いたり書き込んだり、読破したと友人に自慢して嫌な顔をされたり。厄介にも、そういった本の感想にくっついているものはなかなか切り離せない。

30年振りの新訳ともなれば賛否が飛び交うのは当然だろうし、そもそもロシア語が読めないので読み比べても私には"正解"がわからない、その手の高尚な議論にあまり興味もないけれど。

本書は新訳の翻訳後、その情熱のまま二ヶ月間で書き終えたらしい。一章やそこらの考察はままあるが、日本語で丸々一冊を続編の空想にあてた本は他にあるだろうか。亀山訳を読んだ余熱を残したまま、本書を読める人は素直に羨ましい。

ありがちな部分々々の考察で終わらずに、きちんと著者の考えるプロットとして結論もでている。その過程も私は楽しかった。探せば読みごたえのある反論・異論が幾らでも見つかると思うが、それも『未完成』の魅力の一つだろう。